自然災害に備える

北海道の気候の特徴と自然災害:過去の大きな災害とその教訓

北海道の自然環境の特徴

北海道は気象の変動が激しい地域で、しばしば低気圧の影響を受けます。この低気圧の影響で、強風や吹雪が発生し、時には家屋の損壊や船舶の事故、火事などの災害が発生することがあります。さらに、台風の進路によっては、大量の雨が降ることも。

北海道の地形は変化に富んでおり、中央部には北見山地や日高山脈といった山々が連なっています。冬季には、日本海側での積雪が多く見られる一方、太平洋側は比較的雪が少ないです。また、内陸部では冬の気温が非常に低くなることが特徴的で、-10℃を下回ることも。

夏の8月には、札幌を中心に気温が上昇し、平均で26.4℃程度まで上がります。逆に、冬の1月には、帯広を中心に気温が大きく下がり、平均で-13.7℃まで冷え込むことがあります。降水の傾向としては、夏から秋にかけての期間に多くの雨が降る一方、日本海側では冬季に雪が豊富に降ることが知られています。

北海道は日本で唯一の亜寒帯気候

世界の気候を熱帯、乾燥帯、温帯、亜寒帯(冷帯)、寒帯の5つに区分する「ケッペンの気候区分」によれば、日本列島の大部分は温帯に区分されますが、北海道だけは亜寒帯に分類されます。

また国内では、6つの気候区に分けるのが一般的です。北海道気候区、日本海側気候区、内陸気候区、瀬戸内式気候区、太平洋側気候区、南西諸島気候区の6つです。

北海道では全域が北海道気候区に分類されます。

北海道の気候は、本州と比べて寒冷で、そのため家屋には二重窓が設置されることが一般的です。気温の年間変動が大きく、夏は短期間で冬が延長し、また降水量も比較的少ないという特色があります。

北海道の気象災害の歴史

北海道の気象災害は、意外にも熱帯低気圧である台風によるものが多く記録されています。とくに1954年(昭和29)の洞爺丸台風は歴史に残る大災害になりました。さらに、北海道では低気圧が引き起こす強風や吹雪、そしてそれに伴う火事などの災害も過去に多数発生しています。

年月日 災害種別 死者・行方不明者数 被災地 概要
1934年3月21日 火災

2015

函館市

1934年(昭和9)3月21日18時53分頃、北海道函館市で「函館大火」と呼ばれる大規模な火災が発生した。火災の発端は、函館市の南端にあった家の屋根が強風で飛び、炉の火が巻き上げられ出火したもので、その後、強風の影響も相まって市内22カ所に飛び火し、最終的には焼損家屋10,000棟以上、市内の3分の1を焼失する大火となった。

死者・行方不明者は2,800人以上にのぼったが、死因としては、火災による焼死のほか、避難中の溺死や凍死によるものも多かった。


1950年11月27~29日 暴風雪 111 沿岸各地 海岸地方各地で最大強風25m/s前後となり、家屋倒壊、漁船遭難などの被害が出た。
1954年9月26日 暴風雨 1600以上 全域

9月21日、ヤップ島の北部で発生した台風第15号は、驚異的な速さで進行し、26日の早朝には鹿児島湾を経由して大隅半島の北部へと上陸しました。その後、九州の東側を迅速に通過し、中国地方を約時速100kmで横切り、山陰沖を経て日本海へと向かいました。台風はその後も勢力を増して北海道に迫り、夜の21時頃には北海道の寿都町沖をピーク時に通過し、27日の初めには稚内市近くに到達しました。

この台風に伴う降雨は、九州や中国地方で特に激しく、一部地域で200mmを超える記録がありましたが、他の地域ではそれほど多くはありませんでした。台風が日本海に進入してもその勢力は衰えず、西日本から東北、北海道にかけて30m/sを超える強風が吹き荒れました。

この強風の影響で、函館港を出発した洞爺丸をはじめとする5つの青函連絡船が高波に巻き込まれ、遭難。特に洞爺丸では、乗組員と乗客合わせて

1,139名が命を失うという悲劇が発生しました。また、北海道の岩内町では大規模な火災が発生し、3,300軒以上の家屋が焼失しました。この台風による影響は九州から北海道にかけての広範囲に及び、多くの地域で被害が報告されました。

1979年10月18~20日 暴風雨 72 全域

台風が東日本を縦断。えりも岬沖を通過し、千島北部に達した。被害は漁船の沈没・破損、流失が322件と多く、特に道東沿岸では漁船の遭難により死者・行方不明72名にのぼったほか、負傷者も10名に達した。丘珠空港内では、セスナ機が転覆し大破した。

住家全壊14棟、半壊、一部破損など638棟。浸水家屋・床上286棟、床下1,932棟。

2003年8月9~10日 暴風雨 11 日高・十勝地方

2003年8月初旬、台風0310号が日本を通過し、強風と豪雨をもたらしました。この台風による人的被害の多さで、特に北海道での被害が顕著でした。北海道内での死者・行方不明者は7名に上りました。具体的には、十勝地方の上士幌町で車が川に落ち、1名が亡くなり、日高地方の門別町や新冠町では車や家屋が川に流され、複数の行方不明者が出ました。特に日高地方北部での被害が深刻でした。1971年以降、北海道で5名以上の被害をもたらした豪雨災害は6回しか記録されておらず、この台風による被害は過去20年で最も大きなものとなりました。

2004年9月7日 暴風雨 9  

8月28日にマーシャル諸島で発生した台風第18号は、9月5日に沖縄を通過し、7日に長崎に上陸、北海道を経て温帯低気圧となった。記録的な強風と大雨が各地で観測され、建物損壊や高潮の被害が発生。西日本では船の事故も多発した。

この台風で札幌では最大瞬間風速50.2m/sを記録している。

2006年11月7日 竜巻 9 佐呂間町

2006年11月7日の午後、北海道のオホーツク海沿いの佐呂間町で突如として竜巻が発生。この竜巻はトンネル工事の拠点施設を直撃し、結果として9人が命を失い、31人が傷を負った。この事件は、日本の突風による被害の中で、最も深刻なものとなった。

さらに、この竜巻の影響で飛ばされた物の一部は、20km離れたオホーツク海で見つかった。



2013年3月2~3日 暴風雪 9

道東

道北

 

013年3月、北海道は突如の暴風雪に襲われ、特に道東やオホーツク海沿いで9人が命を落とす大災害となった。この日の午前は晴天だったが、午後には猛吹雪が発生。この暴風雪の背後には、急激に発達した低気圧が関与していました。この低気圧は千島近海で968ヘクトパスカルまで発達。紋別空港や中標津の気象観測所では、記録的な風速22.9メートルを記録しました。この強風により、多くの車が吹きだまりで立ち往生する事態となりました。

1954年の洞爺丸台風ー沈没する船で乗客を励まし続けた外国人宣教師がいた

1954年(昭和29)9月26日、北海道と青森を結ぶ連絡船「洞爺丸」は、台風15号の中を航行中に沈没し、1155人が犠牲となる日本海難史上最悪の事故が発生しました。

この事故は、1912年(明治45)に1513人が死亡したタイタニック号の沈没にも匹敵する船舶事故として世界中に報道されました。

洞爺丸が函館を出航してから沈没までの約4時間にわたって、乗客たちは揺れる船の中で恐怖と不安と襲われ続けていたことでしょう。そのような状況のなかで、カナダ人のアルフレッド・ストーン宣教師とアメリカ人のディーン・リーパー宣教師が乗船していて、乗客を励まし続けた話が伝わっています。

事故の最中、彼らは他の乗客を励まし、救命胴衣を若者や子どもに譲り、着衣の手助けをしたり、手品を披露して乗客たちを落ち着かせたそうです。彼らの救命胴衣を受け取った者たちの中には、奇跡的に救助され生き残った人もいました。

しかし、彼らの遺体が後に発見された際、救命胴衣は身につけていなかったそうです。

北海道の冬の名物「流氷」ーその存在が脅かされている

北海道の冬の魅力と言えば、間違いなく「流氷」が挙げられます。北方の海が凍り、その氷が風や海流の影響で破片となり、オホーツク海沿岸に流れ着くのが流氷の成り立ちです。冬の訪れとともに、この海域は流氷の美しい風景で彩られます。

3月に入り、流氷が退去する頃、オホーツク海では「幻氷」という現象が観測されることがあります。冷たい流氷の上を暖かい空気が流れると、その空気の密度の違いから光が屈折し、遠くの流氷が近くに見える、あるいは水平線上に浮かんで見えるのです。これは、富山湾で見られる蜃気楼のようなものと言えます。

流氷の力は圧倒的で、その破壊力には注意が必要です。流氷が漁船に衝突するリスクもあるため、沿岸の漁師たちは流氷の接近を警戒し、船を安全な場所に移動させます。しかし、流氷はこの地域の魅力的な観光スポットともなっており、網走や紋別からの流氷観光ツアーは多くの人々に愛されています。

しかし、地球の気温上昇の影響で、流氷の範囲が徐々に縮小しているとの指摘があります。この傾向が続くと、将来的にはオホーツク海の流氷が見られなくなる日が来るかもしれません。地球温暖化は、私たちの生活環境に深刻な影響を及ぼしているのです。

なぜ道東は霧が多いのか

北海道の東部、特に釧路市は「霧の都」として知られ、時に「日本のロンドン」とも称されるほど、霧が頻繁に発生します。この地域だけでなく、北海道の南端から根室半島にかけても霧の出現が一般的です。釧路市では、年の約三分の一が霧で覆われることがあります。では、なぜこの地域で霧が多く発生するのでしょうか。

主な理由は、道東の太平洋沿岸に流れる千島海流(親潮)と、南東からの季節風の影響です。親潮は冷たい海流で、対照的に南方を流れる日本海流(黒潮)は暖かい海流です。春から夏にかけて、太平洋高気圧の影響で南東の季節風が吹き、この風が暖かい黒潮を通過する際に水蒸気を多く含むようになります。この湿った風が、冷たい親潮の上を通ると、水蒸気が凝結して霧を形成します。この海上で発生する霧を「海霧」と呼び、やがてこの霧は陸地にも流れ込みます。

特に5月から9月の間、釧路市の霧の発生はピークを迎え、この期間の霧の日数は年間の約72%を占めます。

霧の多い地域では、太陽の光が遮られるため、地表の温度が上がりにくくなります。そのため、道東では稲作が難しく、農作物の収穫も限られています。しかし、この冷涼な気候は酪農には適しており、特に牧草の栽培が盛んです。広大な平地である根釧台地も、酪農が栄える要因となっています。

日本一寒い都市は?

日本の内陸部は、夏と冬、昼と夜の気温の変動が大きいのが特徴的です。特に、広大な地域を持つ北海道の内陸部は、海の影響を受けにくく、気温の変動が激しいです。そのため、北海道の内陸部は日本で最も低い気温を記録する地域として知られています。

実際、日本の最低気温の記録は、北海道の中心部に位置する旭川市で確認されています。1902年1月、旭川での観測値は驚異の-41℃で、この記録は今も破られていません。また、非公式ながら、旭川市の北部の美深町では、さらに低い-41.5℃が記録されています。これは、富士山の頂上の最低気温よりも低いことを意味します。

しかし、最低気温の記録を持つ旭川市が日本で最も寒い都市とは限りません。実際、旭川市の周辺には、さらに冷え込む地域が点在しています。例えば、士別市や名寄市、美深町など、これらの地域は旭川よりも冷え込むことが知られています。中でも、石狩山地の東側に位置する陸別町は、日本で最も寒さが厳しいとされる場所です。1月の平均気温は-11.4℃と非常に低いです。陸別町には、その寒さを活かした自動車のテストコースもあり、冬の厳しい条件下での走行テストが行われています。また、多くの人が高緯度地域でしか見られないと思っている「オーロラ」も、陸別町で時折観測されることがあるのです。

日本での最低気温のトップ10

順位 観測地点 気温 起点
1位 旭川 (北海道・上川地方) -41.0℃ 1902年1月25日
2位 帯広 (北海道・十勝地方) -38.2℃ 1902年1月26日
3位 江丹別 (北海道・上川地方) -38.1℃ 1978年2月17日
4位 富士山 (静岡県) -38.0℃ 1981年2月27日
5位 歌登 (北海道・宗谷地方) -37.9℃ 1978年2月17日
6位 幌加内 (北海道・上川地方) -37.6℃ 1978年2月17日
7位 美深 (北海道・上川地方) -37.0℃ 1978年2月17日
8位 和寒 (北海道・上川地方) -36.8℃ 1985年1月25日
9位 下川 (北海道・上川地方) -36.1℃ 1978年2月17日
10位 中頓別 (北海道・宗谷地方) -35.9℃ 1985年1月24日

北海道の地震被害

十勝沖地震と根室半島沖地震ーふたつのプレートが引き起こす地震

北海道の地震活動を見ると、特に十勝地方沖での地震が目立ちます。この地震の原因となるのは、北海道の太平洋側に位置する千島海溝です。

この海溝では、太平洋プレートが北米プレートの下に潜り込む動きをしており、年に数センチの速さで移動しています。プレート間の岩盤がこの動きに耐え切れなくなると、地震が発生するのです。

2003年の十勝沖地震では、十勝川河口近くでの津波により、2名の釣り人が行方不明となりました。さらに、1952年の十勝沖地震は、北海道から東北地方にかけての広範囲に津波被害をもたらし、33人が犠牲となりました。特に、釧路市周辺の湾では、津波の高さが6.5メートルにも達しました。

さらに過去を探ると、1843年にも大きな地震があり、その際には46人が津波で命を失ったとの記録があります。

また、千島海溝の近く、根室沖でも1894年と1973年に地震が確認されています。これらの地震も、太平洋プレートと北米プレートの動きが原因とされています。

十勝沖地震の歴史 根室沖地震の歴史

1843年4月25日 M7.5(推定)

津波が襲来、アイヌの家が流出したという記録が残る。

1894年3月22日 M7.9

最大震度は5。揺れは北海道から関東地方にかけて広範囲に及んだ。国後島、厚岸、岩手県大船渡などを高さ1~2mの津波が襲った。

1952年3月4日 M8.2

十勝地方の泥炭地に被害が大きかった。

津波も襲来。

1900年12月25日 M7.1

北海道から青森で建物に被害があった。

1968年5月16日 M7.9

北海道、青森、岩手を中心に南は埼玉まで広範囲に揺れた。最大5mの津波が発生し、太平洋沿岸の各地を襲った。

1973年6月17日 M7.4

根室と釧路で震度5。

根室市花咲に2.8mの津波が到達した。この津波で、家屋への浸水や船の流失、沈没などの被害が発生した。

2003年9月26日 M8.0

最大4mの津波が北海道などを襲った。死者・行方不明者は2人。

2000年1月28日 M7.0

根室市や釧路市で最大震度4を記録した。

2008年9月11日 M7.1

新冠町などで震度5揺れ。

 

十勝沖地震・根室沖地震の参考地図

十勝沖地震の将来の地震発生の可能性
地震の規模 M8.0~8.6程度
地震発生確率 30年以内に、10%程度
地震後経過率(地震後経過率とは・・・ 最新活動(地震発生)時期から評価時点までの経過時間を、平均活動間隔で割った値です。最新の地震発生時期から評価時点までの経過時間が、平均活動間隔に達すると1.0となります。) 0.24
平均活動間隔 80.3年
最新発生時期 平成15年(2003年)十勝沖地震
地震本部の評価

地震本部は、過去の十勝沖のプレート間巨大地震については、1839年以降、1843年(M8.0,Mt8.0)、1952年(M8.2,Mt8.2,Mw8.1)、2003年(M8.0,Mt8.1,Mw8.3)の3つが発生したと評価しました。このうち、1843年の地震は根室沖と連動した可能性があります。

 また、各種調査・観測記録がある1952年と2003年の十勝沖地震では、ともに太平洋沿岸で最大震度6(2003年は6弱)の地震動を伴い、浦河から厚岸の各所で揺れによる被害が発生しました。津波の遡上高は1952年と2003年を比較すると、釧路より西側では類似しますが、東側では1952年の方が明らかに高いため、津波観測によると1952年の地震の津波の波源域は十勝沖の領域よりも東へ広がっていると推定されます。

地震の規模 M7.8~8.5程度
地震発生確率 30年以内に、80%程度
地震後経過率(地震後経過率とは・・・ 最新活動(地震発生)時期から評価時点までの経過時間を、平均活動間隔で割った値です。最新の地震発生時期から評価時点までの経過時間が、平均活動間隔に達すると1.0となります。) 0.76
平均活動間隔 65.1年
最新発生時期 1973年6月17日(根室半島沖地震)
地震本部の評価 地震本部は、過去の根室沖のプレート間巨大地震については、1839年以降、1843年(M8.0, Mt8.0)、1894年(M7.9,Mt8.2,Mw8.3)、1973年(M7.4,Mt8.1,Mw7.8)の3つが発生したと評価しました。1894年と1973年の地震では、根室半島付近で負傷者を伴う地震動と津波を記録しました。ただし、1894年の地震は、1973年よりも津波波源域が広いと推定されているため、震源域が広い可能性があります。

(参考地図・データは地震本部より)

1993年の釧路沖地震と北海道南西沖地震

1993年、北海道は大きな地震に2回も見舞われました。

最初の地震は1月15日、釧路の近くで発生しました。この地震の中心は釧路市から南に15キロ、海の深さ101キロの場所で、強さはM7.5でした。この影響で、北海道の南東部の多くの場所が被害を受けました。釧路市では電気が止まり、液状化現象でマンホールが1m以上も抜け上がりました。地すべりが起きて、厚岸町の国道が不通となり、標茶町の造成地が崩れ落ちたりしました。

そして、もう一つが釧路沖地震の半年後、7月12日に起きたM7.8の北海道南西沖地震です。死者・行方不明者は、230人にのぼりました。特に、奥尻島は大きな被害を受け、島の人口の約4%にあたる198人が亡くなりました。このため、この地震は「奥尻島地震」とも言われています。

奥尻島での地震の後、大きな土砂崩れが起きてホテルが壊れ、20人以上が亡くなりました。そして、5分後には大きな津波が来て、多くの家が壊れました。火事も起きて、町の多くの場所が焼けました。津波はとても高く、多くの場所で被害が出ました。

奥尻島で震度6の大きな地震が発生したとき、すぐに土砂が動き、奥尻港の近くのホテルが倒れ、20人以上が命を失いました。その後、5分も経たないうちに、津波が島を襲いました。特に、島の南側の青苗地区では、500軒近くの家が10メートルの高さの津波によって壊れました。さらに、火事が起きて、残った家やガスタンクが炎上し、大きな火災が発生しました。西側の藻内地区では、津波が約30メートルもの高さで押し寄せ、北部の稲穂地区や南端部の初松前地区、東部の奥尻地区なども津波による被害を受けました。

この地震で、専門家たちは「災害弱者」の存在に焦点を当てました。これは、地震や津波が襲っても、自分で安全な場所に逃げられない高齢者や身体に障害を持つ人たちを指します。奥尻島の犠牲者198人の中で、60歳以上の方が90人と、ほぼ半数を占めていました。一部の人々は、家族の高齢者を守るために家を離れず、また、身体の不自由な人をリヤカーで運ぼうとして津波に巻き込まれる事故もありました。この悲劇は、「災害弱者」である高齢者や身体に障害を持つ人たちの安全確保についての議論を促進するきっかけとなっています。

(気象庁より)

北海道南西沖地震の将来の地震発生の可能性
地震の規模 M7.8前後
地震発生確率 30年以内に、ほぼ0%
地震後経過率(地震後経過率とは・・・ 最新活動(地震発生)時期から評価時点までの経過時間を、平均活動間隔で割った値です。最新の地震発生時期から評価時点までの経過時間が、平均活動間隔に達すると1.0となります。) 0.02-0.06
平均活動間隔 500年-1400年程度
最新発生時期 平成5年(1993年)北海道南西沖地震
地震本部の評価

この領域では、1993年に「平成5年(1993年)北海道南西沖地震」(M7.8)が発生しています。一方、堆積物の解析から、この領域において地震が発生する平均間隔は500~1400年程度と推定されています。このことから、今後30年以内に、この領域で地震が発生する確率はほぼ0%と推定されています。次の地震の規模はM7.8前後と予想されています。

 「平成5年(1993年)北海道南西沖地震」は、日本海東縁部の地震であり、渡島(おしま)半島中央部の西の海域で、ほぼ南北に広がった領域を震源域として発生しました。この地震では、寿都(すっつ)町、江差(えさし)町、小樽市、青森県深浦町で震度5が観測されましたが、震源域が奥尻島や渡島半島西岸に近かったため、地震発生後4~5分で津波が押し寄せ、多くの人が犠牲となりました。現地調査によると、津波の高さは、奥尻島で最大約30mに、渡島半島の西岸でも最大7~8mに達しました。特に、奥尻島の青苗地区では、津波と地震後に発生した火災によって市街地が壊滅的な被害を受けました。さらに、渡島半島の地盤が軟弱な地域などでは、地盤の液状化現象や亀裂などによる被害が生じました。被害は全体で死者・行方不明者230名、負傷者323名などでした。

(参考地図・データは地震本部より)

北海道胆振東部地震ー観測史上最大の土砂崩れが発生

北海道の日高山脈の西側にある厚真町は、2018年9月6日に強烈な地震に見舞われました。この地震は、北海道胆振東部地震として知られ、北海道で初めて震度7を記録しました。震源は約35キロの深さにあり、深部の断層が動いたと推測されています。

このM6.7の地震は、北海道全体からさらに南関東の埼玉県まで広範囲に影響を及ぼしました。特に、安平町やむかわ町では震度6強を、札幌市東区、千歳市、日高町、平取町では震度6弱を観測しました。その後も余震が続き、約1ヶ月後の10月5日には、震度5弱の地震が再び発生しました。

土砂崩れが地震の被害をさらに拡大させました。特に、恵庭岳や樽前山周辺は、過去の噴火で軽石が積もっている地域でした。軽石はその名の通り軽く、また壊れやすい性質を持っています。前日には台風による大雨も降っており、そのため地震の強い揺れと相まって、軽石で覆われた山の土砂が崩れ落ちる事態となったのです。

厚真町の多くの場所で土砂が崩れ、住宅や道路、田んぼなどが大きな被害を受けました。陸上自衛隊をはじめとする救助隊が出動しましたが、この地震で亡くなった44人中、36人が厚真町での土砂崩れによるものでした。特に、吉野地区では13の家族、合わせて34人が住んでいましたが、広範囲にわたる土砂崩れの影響で19人が命を失いました。

この地震による土砂崩れの規模は、新潟県中越地震や岩手・宮城内陸地震のものを上回り、明治時代以降の日本の記録で最も大きなものとなりました。

北海道胆振東部地震の後、広範囲での停電、通称「ブラックアウト」が発生しました。この原因は、北海道の主要な発電所である苫東厚真火力発電所が機能停止したためです。この停電は北海道全体に影響を及ぼし、復旧までに2日間を要しました。

このブラックアウトの影響は多岐にわたりました。例えば、高層のアパートやマンションでは、電気を使って動く水のポンプが停止し、住民は水不足に直面しました。また、酪農家では、電気がないために牛乳の冷蔵ができず、多くの牛乳が廃棄される事態となりました。さらに、電気を使っての乳搾りができないため、健康を害した牛も出てしまいました。

物の供給も困難となり、多くの人々が食料や水を求めてスーパーやコンビニエンスストアに殺到しました。交通面でも、北海道新幹線を含む多くの列車が運行を停止。新幹線は翌日には動き出しましたが、他の路線は1週間以上も運休が続きました。千歳空港も被害を受け、安全確認が終わるまでの間、運航が停止されました。

さらに、北海道に滞在していた多くの外国人観光客は、移動手段を失い、宿泊先も確保できずに困惑しました。

この地震は、直接の被害だけでなく、広範囲にわたる「ブラックアウト」という新たな問題を引き起こし、多くの人々に大きな影響を与えました。

(北海道胆振東部地震災害検証委員会資料より)

  • この記事を書いた人

榎本研二

三京株式会社 代表取締役 【不動産鑑定業者登録番号 埼玉県知事(11)69号】  不動産鑑定士 榎本研二 不動産鑑定士として50年にわたって個人のマイホーム購入に絶対失敗しないためのアドバイスを提供。人生最大かつ最重要の買い物であるマイホーム購入前に、プロフェッショナルの見解を参考にしたことで、買ってはいけない物件を見送った方々はみな、現在ハッピーライフを送っています。複雑な不動産関連の税金対策も、ベテラン不動産鑑定士ならではの策を講じてみなさんの資産を守ります。

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